第5回 魏延・司馬炎

今回は演義で不当に汚名を着せられている人にスポットを当てます。劉備関羽の仇討ちで呉に攻め入って、陸孫にこてんぱんに敗れます。配下の将軍もかなり死んで、蜀軍はガタガタになります。これで、孔明が軍隊も掌握するようになるわけですが、ここでキーポイントになる人物として、魏延と言う人がいます。


魏延は、「三国志演義」の中では孔明に逆らいつづけた上に、最後には謀反を起こして死んでしまう。孔明はそれをずっと昔から見抜いていたという、かなり損な役回りを演じさせられています。ただ、魏延が問題を起こすようになるのは劉備が死んでからで、それまではなんら問題になるようなことは起こしていません。劉備が219年に漢中王になりました。劉備の絶頂期です。このとき漢中の太守を誰にするかというのが問題になりました。漢中太守というのは、蜀軍の北部方面司令官ともいうべき役職で、蜀軍が魏軍と戦うときは、必ず第一線に立つことになります。ですから、よほどの人物でなければこの役は務まりません。当時は、張飛が任命されると思われていて、張飛もそのつもりだったのですが、劉備が任命したのは魏延でした。


魏延劉備からそれだけ高く評価され信頼もされていて、魏延劉備に対して忠誠心を持っていたのだと思いますが、劉備の死後、魏延からみると孔明がのさばってきたように思えるのではないでしょうか。自分に代わって漢中の軍権を孔明が握ったわけですから、魏延から見れば前線で指揮をとったことのない奴が自分にあれこれ指示をだすわけで面白くないわけですね。


魏延はごやっかいになってたところに劉備が攻めて来た時に、その主人を殺して劉備に降伏して家臣になっているのですが、その時に「三国志演義」では孔明が「こいつは恩人を殺して降伏してきたとんでもないやつだから殺しましょう。」と言って、劉備がなだめて助けたということになっています。この時、孔明は「魏延には謀反の相があるから殺しておいたほうがいいのです」と言って何十年も前から、魏延が謀反を起こすことを見抜いていたということの伏線になるわけですけど、私も最初に読んだときに?と思ったんですけど、その直前に代々仕えていた主君を殺して降伏してきた武将がいるんですけど、この時は何も言わないんですよね。全く矛盾するので、これは演義の創作部分だと思います。


魏延の話が長くなりました。えーと、前回の続きだと呉の滅亡と三国時代の終わりですね。呉が滅亡するよりも先に魏が晋に乗っ取られます。晋軍の王濬(オウシュン)が、旧蜀の四川地方、そこから大船団で長江を下り、一挙に呉の首都建業をつきます。これが、黄布の乱から96年後のことで、ここに約100年ぶりに乱れた天下が治まったということになります。この時天下を統一したのが、晋の武帝司馬炎という人で司馬懿の孫に当たります。この人は歴代の中国皇帝の中でも楽をして天下を取った人です。だいたい大変なことはおじいさんやおとうさんやおじさんがやってますので。ただ、この司馬炎というひとは寛大なひとで、降伏した国の皇帝は貴族として天寿をまっとうさせてやりました。ただ、統一した後は目標を失って、後宮に入り浸りで死んでしまいます。なにせ、この人の後宮には一万人も美女がいたそうですから。