Theヲタ美学

tetteke2005-05-16

あまり面として言われたことがないんで、それを発端に書くともなんなんですけど、高橋愛のヲタは自分が一番高橋愛のことをわかっているというような態度を取ると、批判めいたニュアンスで言われることがあるようです。それを人づてで聞いたときに思ったのが、「それって当たり前のことじゃないの?」ってことです。僕は少なくともそうありたいと思ってますけど、別に他人にもそれを認めさせようとか、他人を認めないとかそういうことじゃないですけどね。むしろ他人は関係なくて、自分とその対象、僕の場合は高橋愛、時には新垣里沙紺野あさ美であったり、モーニング娘。であったりするけど、その対象との真剣勝負だと思って、自分がどれだけ相手のこめた想いを受け止められるかということに心を費やしたいと思っています。もちろん、普通に楽しんでる時間の方が多いんですけど、そうありたいってことでね。


ただ、確かに高橋愛のヲタは激しい性格してる人が多いかもしれないですね。それは、必ずしもマイナスだとは思いません。激しいと言うことは、情熱的でもあるといえますから、それを正しい方向へ導けば、建設的な方向へ物事を進めることが出来ることができます。しかし、妥協を嫌うので方向性を誤ると泥沼的な様相を呈することもあるかもしれません。


さて、そんなちょっと堅苦しいことを考えながら高橋愛ちゃんを見ている僕ですが、やはり世の中には同じような立ち位置から、同じような視点で物事を考えて、しかもそれを発表してくれちゃったりなんかしちゃってる人がいたりします。そういうのを読むと、自分が気付いていないことに気付かされたり、漠然としか分かっていなかったことがはっきり分かったり、刺激されてもっと考えたりと何かと有益です。と、そんな人たちをリスペクトすると同時に、負けたくないという感情も芽生えます。自分が前進する上でこれは一番自分を燃えさせてくれる感情で、そういう思いを抱かせてくれる相手を僕はライバルと呼びます。別に強敵と書いて"とも”でもいいんですけどね。


ライバルとは、お互いに切磋琢磨して高め合う存在なわけですよね。至極当然なことを書いてますけどw、で、僕は5期のメンバーと限定してもいいけど、モーニング娘。としてもいいや、もちろん仲良しこよしの友達でもあるけれど、ライバルでもあると思います。それが友達ではなく、仲間ってもんじゃないかと思うんですね。


ここでとある人にスポットを当ててみようと思う。紺野あさ美。5期の他の3人に比べて、食べ物以外の面で自分を出すことが少ない彼女。自分が歌やダンスが得意ではないという自覚があることは、これまでの言動からわかります。でも、決してそれでいいと彼女は思っているわけではない。ハローハロプロで、語ったように彼女はモーニング娘。なんです。歌は得意ではないけれど、得意じゃないとは言いたくないんです。ここに、今はそうだけれども、そのままではいたくないという彼女の意思を見ることが出来ます。そんな彼女が同期である3人に、とりわけ先頭を走っている高橋愛に対して、少なくとも負けたくないという感情を抱いていることは想像に難くありません。例え、今は及ばないとしても。


「努力するところを見て欲しい。」紺野あさ美は、そう言ってモーニング娘。に入ってきた。つんく♂も、今は赤点だけど「努力してるところを見て欲しい」と語った紺野の将来性を買って合格にした。ちょっと言葉が過ぎるかもしれないので、ファンの人にはご容赦いただきたいんですけど、ある意味、芸能人にはあまり向いていない、どちらかというと平凡な能力(容姿とかは別にして)の女の子が、努力して夢をかなえる、これは娘。が好きで娘。になっちゃった新垣里沙の物語に決して劣らない物語性を、紺野あさ美ももっている。それこそがモーニング娘。なんだ。お前(紺野あさ美)こそ、モーニング娘。なんだby江頭2:50


ここで、銀河旋律的アプローチをします。長らく、このサイトを読んでくださっている方の中には、てってけが荀子性悪説好きなのを知ってる方もいるかと思います。簡単に書きますと、荀子は、人間の本質は悪であり、後天的な教化により誰でも聖人となりえると説いた人です。荀子は後天的な教化を礼と考えました。性善説であれば、自然のままにしておくのが最良ということになります。しかし、なぜ儒の世界で礼が重んじられるのか。礼とは人為的なものです。人間は自然のままに放置しておくのはよくないと考えられたからこそ、礼を定めたのです。つまり人間の本質は悪であるということになり、これが性悪説の発想です。そして荀子はその中での後天的な教化を重視しました。

人間の本質は悪なり、その善なる者は偽なり

「偽」という言葉は、現代ではイメージの悪い言葉です。ニセモノを意味します。しかし、「荀子」のなかでは、この文字はツクリモノを意味します。ツクリモノすなわち人為です。努力して作ったもの、それこそが善なのです。これが、僕がこのサイトでたびたび口にしている偽善の勧めです。


そうすると、紺野あさ美は(紺野に限らず、娘。に僕はこれを見てるわけだけど)僕にとって応援せずにはいられない娘。なわけです。だって、体現者なわけじゃないですか。紺野あさ美は頑張っている、時に「こんなことやっても意味ないんじゃないか」とくじけそうになりながらも(娘。ドキュメント座談会)、頑張っている。それはきっと、出来なかったことではなく、出来ることをやらなかったという後悔だけはしたくないから、ライバルたちにみすみす負けるのを、そして自分に負けを認めるのがいやなのでしょう。そういう自分の弱い部分も知っていながら、でもやっぱり頑張っちゃう紺野さんに僕は親しみを感じます。さぁ、こんこん一緒に頑張ろう。本物になりたいと願い、努力していればいつかはなれるかもしれないよ、本物以上の偽物に。