擬似恋愛論-無益なことを有意義に-

tetteke2005-07-04

ALIMCきむけんの「ネカマ論」を読んだ。もともと、この題名で書くって話は聞いてたんだけどね。彼とは去年のハワイで出会って、推しは違うけど話もよく合うし、いろいろと影響されることもあります。で、話はさわりのネカマ論のほうじゃなくて、そっから擬似恋愛の話のほうへいったほうなんですけど、これがまたちょうどこれを読む前に、「みょだの国から」の6月29日の更新からリンクされてる性交論をさらに読み進めて、ちょうど恋愛論 のところまで読み進んでまして、混ぜ合わせるといろいろ語りなくなるという感じです。


恋というものは、愛よりも一方的で自己中心的であり、それゆえにより強い感情となり、恋しい相手を手に入れたいというエネルギーとなるものだそうです。 すべての恋が本気の恋であり、恋をあきらめるつらさは、人格や個性に関係ありません。恋する本人にとっては、恋する相手をあきらめることほど、この世でつらいものはないかもしれません。

自分を見失うほどに強いエネルギーを持っているために、恋は普通一時的であり、相手を手に入れることによりそれは終わりを迎え、より穏やかな愛が取って代わります。また、たとえ死ぬほどつらい恋に破れたとしても人間は、再び恋をする能力をしっかりと残しています。何回でも恋をする能力を持っています。70を過ぎても80を過ぎても恋をする能力を持っているのです。


リンク先の恋愛論から、この更新に関係のある部分だけを要約してみました。これを踏まえて、ALMICきむけんの「Respect For You」で書かれている擬似恋愛部分を読んでみる。

互いの事を知らないのに恋愛なんて成り立つわけがない。
だから、これは擬似恋愛である事は最初から明らかだ。
それがわかっていても、その擬似恋愛を楽しんでいる。
恋に恋するという感じに近いな。

確かに成就する可能性は極めて低い・・、つーか、まずない。しかし、それと反対に自分からやめなければ、終わることもない。恋愛として成就する可能性がないという意味で擬似恋愛ではあるが、片側だけみればそれは本物の恋でもある。なぜなら、恋とはもともと一方的なものであるのだから。相手の言動に一喜一憂し、ドキドキ感と切なさを楽しむ。時には境目がわからなくなって苦しむ。でも、終わりがないので感情はループする。アイドルヲタはある意味、恋愛ジャンキーなんだな。


もちろんみんながみんな当てはまるわけじゃないけど、自分と周りの人達を見て納得できる話だった。自分では年齢的に他人の目も気になるわけで、また、相手がそういう対象として評価されるよりは、もっと別の評価をしてほしいと思うだろうという、結局これも相手に気に入られようという気持ちの別の現れだと思うけど、思考言動の奥底にそういう恋愛感情が全くないといえば、嘘になる。アイドルの色恋沙汰が問題になるのは、例え理性面で納得しても、感情面ではその本来終わるはずのなかった一方的な恋を相手から終わらせられることへの拒否反応からくるんじゃないだろうか。0か100かで割り切れるものでもないので、その度合いによって肯定出来たり出来なかったりとあるんだろうな。その拒否反応を認めたうえで肯定できるのがより大きな愛なのかもしれないですね。愛とは矛盾を抱えたものなのかもしれません。(おっと、うちのテーマに話を持ってこれたぞw)


もともと成就することのないものに熱中するわけで、興味のない人から見れば、そんな無益なことに夢中になるのは馬鹿に見えるでしょうね。自分に興味のないことは損得で考えがちですが、趣味も兼ねたことですし、趣味はもともと利益を考えてやるものでもないので、それはそれで当事者はいいんですけどね。それに無益なことが必ずしも無意味なことではないのは、このページで何度も言ってる通りです。自分なりにいいほうへ昇華できればいいんです。僕も、この趣味がもとで堕落しては意味がないと思っていますし、出来るならこの特殊な世界で経験したことで自分を高めたいと思います。高めてどうすんだ?というと別にどうもしないですけど、人は立ってどうしようと考えて立つわけではなく、立ちたいから立つわけで、それと同じことですよね。せめて自己啓発しようとそう思うことすら見栄なのかもしれないけど、結果的に良いならそれでいいやw