お風呂の湯加減見に行った

先週は武道館ということもあって、今回の娘。ツアーをはじめて見る方のレポートがたくさんありました。それらを読ませていただいて、同じ意見にせよ違う意見にせよ、それを読んだことによりより自分の意見や視点が明確になった気がして、また新鮮な気持ちで名古屋・大阪のコンサートを見ることが出来ました。


中には楽曲によっては、以前それを歌っていた娘。と比べて、比べること自体は分かりやすいので別にいいんですけど、技術ではなく表現のほうにおいて違う点にばかり目が行って、しかもそれを至らない点としてとりあげているものを読んで考えたことがあります。


てってけはハロー以外の趣味に、演劇・ミュージカルなどの舞台を観賞する趣味を持っています。ですから、どちらかというと音楽よりは演技のほうの観賞眼に自信を持っているんですけど、普通演劇は、脚本家がストーリーを作り、演出家が舞台を構成し、役者が演じます。脚本家と演出家が同一の場合も珍しくはありませんが。当然、脚本家にも演出家にもこの役はこう演じて欲しい等の希望があります。しかし、演技とは脚本家や演出家の言うとおりの演技をすることが正解ではありません。そこには当然、実際に演じる役者の希望も入ってきます。一つの役を演じるということは、演者と演出家の表現における戦いでもあります。


演技とは、脚本に書かれている内容をそのまま立体化することではありません。よく役になりきるという言葉が使われますが、これは脚本に描かれている人物に自分を同化させ、なりきるということでは決してありません。このシチュエーションでは自分はどんな気持ちでどんな表情をするのか、このセリフを言うとしたら、自分の心にはどんな感情があるのか、役と自分の重なる部分を膨らませ、重ならない部分をそぎ落とします。ですから、自分に無いものは当然出せません。経験(読書や映画・舞台などの疑似体験も含めて)によっても1年前の自分と現在の自分では当然変わって来ます。そして、その役と重なる部分は演じる役者によっても当然違います。


すでに何を言いたいのかはお分かりいただけていると思いますが、これを演技を歌に、演出家をプロデューサーに、役者を歌手に置き換えてください。僕はこれはそのまま当てはまると思います。違うというところにばかり目が行って、その娘。が新たに表現しているものを見落としてはいませんか?確かに持ち歌としてた人は、歌いこんでいる量が違うので深みがあるということはわかります。今回「ラストキッス」を歌う高橋・田中・亀井は本物のタンポポではありません。しかし、今回の娘。ツアーは全部で42公演あります。42公演を本気で歌いこみ、毎回もっと良くしようという気持ちを持ち続けていけば、いつかはなれるかもしれない、本物以上の偽者に。


と、いつもの偽善更新をしてみました。新しい読者の方はわからないかもしれませんが、偽とはニセモノという悪い意味が連想されてしまいますが、本来は作り物という意味です。人が努力によって後天的に作り出すもの、つまり人為ですね。僕は今ツアー、これはどこまで表現をのばしていくんだろうと楽しみにしている歌がいくつかあります「Memory 青春の光」「ラストキッス」「涙が止まらない放課後」ですね。


それから今日書いた更新は、今ツアーの僕の見方にいろいろかかわってくるんですけど、成長した分だけ昔とは表現がかわりますよって感じで注目いてるのが「Memory・・」の愛ちゃん、それと「そっと口づけて、ギュッと抱きしめて」。同じ曲でも人によって表現が変わるっていうのは「ふるさと」「はじめてのロックコンサート」ですね。おいおい語っていきます。てってけ通の人(いるのか!?そんな人)は、たぶんここまで書くと、だいたいどれも予想できるかもしれないですね。


重い話ばっかりなのもあれなので、ちょっと軽い話を。今回ツアーではじめて右サイドの席になったんですけど、まぁ、武道館でも右サイドはありましたけど、遠いので。「かしまし2」のマコの部分のお風呂の湯加減見るところ、左サイドにいるときは、こんこんや亀井ちゃんを見てたんですけど、右サイドでは愛ちゃんを見ました。こんこんや亀井ちゃんは、「まだぬるいな・・」って感じの湯加減なんですけど、愛ちゃんは熱湯です。指を湯に入れるやいなや耳たぶに持っていきますw思うに、普段の生活で湯加減を見に行くシチュエーションではそのような場面が多いのだと思います。こんこんや、亀井ちゃんは、まだかなーって感じで、愛ちゃんはゲームでもやってて忘れてて、湯加減見てうぎゃ!みたいな。同じ歌詞でも人によって重なる部分が違うというのはこういうことです。