第6回 晋の恵帝

前回、晋の武帝司馬炎を取り上げたので、その次から。司馬炎は天下の統一後、すっかり歓楽にふけってしまうんですけど、そんな中で五男の司馬衷(しばちゅう)を皇太子にします。その際に重臣のひとりが「あぁ、玉座がもったいのうございます」と嘆いたとのことですので、無能の人だったようです。別に悪逆の人と言うわけではないので、平和な時代で良い臣下に恵まれれば無難に国を治めることが出来たのかもしれません。しかし、混迷の時代に無能であると言う統治者は、その存在自体が罪であるといえます。


恵帝の妻を賈后といい、悪女として有名です。悪女と言うと美女であることが多いのですが、賈后はそうではないので同情する人がほとんどいません、割とどうでもいい話ですけどw。ただ、権力欲が異常に強くて、さらに問題なことは、その欲望を満足させる方法として殺人しか知らなかったことです。次々に皇族や重臣を殺します。そして野心あるものに「賈后に殺される前に、身を守るために挙兵する」という口実を与えてしまいます。8人の王(皇族)が挙兵し、首都洛陽は流血と陰謀のるつぼとなり、賈后も殺され、挙兵した王たちも殺し合い、北からは五胡と呼ばれる騎馬民族も乱入し、自然の運行も乱れて大飢饉となります。「民は飢えております。米が無いのです。」という報告を受けた恵帝の返答はこうでした「米が無ければ肉を食べればよかろうに」これをもって恵帝は後世に暗君の名を残すことになりました。


これだけだと、ただの馬鹿なので違う逸話も。宮中に反乱軍が殺到し、恵帝が殺されそうになったときに、ケイ紹(けいしょう)という近臣が駆けつけ身をもって恵帝をかばって死にました。その血は飛散して恵帝の衣服を濡らしました。救出された恵帝が血を洗い流すために服を着替えるよう勧められると「これは忠実なケイ紹(けいしょう)の血だ。洗い流してはならん」と言ったそうです。だから道義的には善人だったのでしょうけどねぇ。で、結局、この恵帝は急性食中毒という、ものすごく胡散臭い死に方をします。そんでますます時代が混迷してきます。


恵帝は死んだんですけど、八王は争っています。で、この八王が他の王よりも軍事的に優位にたとうと匈奴を呼び込みます。で、結局乗っ取られてしまうわけですが、生き残った皇族の一人が南方へ逃れまして、長江を渡って建康というところを首都にします。東晋の始まりです。北側は、どんどん騎馬民族が入ってきて、漢民族は南へ大移動します。このときにいろいろな戦いや、事件が起きるんですけど、ここに荀灌(じゅんかん)という少女を登場させます。13歳です。はい、適当な13歳の女の子を想い浮かべてください。「三国志」に曹操の軍師で荀紣(じゅんいく)と言う人がいるんですけど、荀灌はその六世孫にあたります。で、この少女のいる城が反乱軍に襲われて、落城寸前になります。そこでこの荀灌がわずかな兵士とともに城を脱出し、遠くまで助けを求めに行きます。そして援軍をつれて帰ってきて城を解放するんですけど、ただ援軍をつれてくるだけじゃなくて、自分で考えて2ヶ所から援軍を連れてくるんです。一方の援軍が早く到着して敵と戦い始める。そこへ第二の援軍が現れて側面をつき、敵を敗走させます。13歳の女の子がそんなことをやってのけたので、さすがは名軍師の子孫だと褒め称えられることになりました。その後はどうなったかは分からないんですけど、お父さんが再興された晋に仕えているので、南へ移ったのでしょう。で、三国志の時代からせっかく統一された天下も分裂状態になりまして、南は晋がなんとか領土を保ち、北は五胡十六国時代になります。