人と聖域と矛盾と

カラオケコン」とよばれるものついて1回だけ書いておこうっと。個人的にはあまりこの呼び方先じゃないんですけどね。えーと、いくつかこれについて言及しているサイトさんを読んだんですけど、goodwoodさんで書かれていることが、わかりやすい。ここを参考にして、自分なりのまとめをしてみたいと思います。


単純に肯定派・否定派と書くと誤解を受けるので最初に定義しておきます。ミハルオーさんが

どの歌を歌われようと、「結果的に」生まれてきたアクトに対して楽しむ「肯定派」

と定義してくれていて、これが非常にわかりやすいので使わせていただきます。「肯定派」といったってオリジナルより他のアーティストの持ち歌を歌うほうがいいというわけじゃないでしょうからね。このミハルオーさんの言う「肯定派」はわかりやすいです。中には出会いものとして、すばらしい効果をあげるものもあるんですけど、それもまた置いときます。


「人」という観点で行くと、やはり普段と違う歌を歌うというのは、単純に新鮮であるだけでなく、今までにない新しい一面をみせてくれることもあり、○○が歌う何々という曲だったら聞いてみたいと思うのがファン心理として当然あるし、もう一歩踏み込めば、○○にこの曲を歌わせてみたいという願望が出たりするでしょう。


一方、「曲」という観点で考えると、ミハさんも書いてる通り個人の思い入れを含んだ一種の聖域が存在するのも事実です。で、ヲタとしては、「人」と「曲」どちらかに割り切れるものではありません。また割り切る必要もないと思います。僕の立脚点はここなんですけど、であるからには、もともと矛盾を生じるものなのです。その矛盾を肯定するかどうかで、肯定派と否定派に分かれるように思えます。


ここでわかりやすくするために「矛盾の肯定」について極端な例を出します。乱世で殺しあってる人を肯定するかどうかです。もちろん殺人は肯定されるものではありません。しかし、兵も人です。人を殺したくないと思っている人が武器をとらされて戦わなければならない現実を認めるということが肯定するということです。現実の一部を肯定し、一部を否定するという、自分の都合で肯定と批判を使い分けるのでは、真の現実を抱え込めません。矛盾をも肯定する、そうでなければ自分に対しての真の解決は得られないと思います。(あくまでも自分に対してですけどね。でも、楽しむ分にはそれでことたりると思うのです)