続・高橋劇場

昨日の更新で、「演じる」って部分が説明不足じゃないかという指摘を受けた。結局、役を演じると言うことは自分ではないわけだから、それは本当の自分とは違うのではないか。その通りでもあるし、違うとも言えます。その方、まぁ、かっしーなわけだが、もともと昨日更新自体が彼の更新 にインスパイアされて書いたものなので、そこをストレートに突いてくれるのは非常にありがたい。一人で考えているよりも、誰かと言葉のキャッチボールをしているほうが、はるかに自分の考えをまとめやすいと言うが、それには相手が肝心です。界隈に入った一番の収穫はそういう相手を得ることが出来たと言うことなのかもしれません。他からは「同じ推しメン同士なのに、よく、うまくやっていけるね」というようなことを言われますが、そこはお互いうまくやっていると思います。良席で連番とかしないしなw


話がそれましたが、彼の出してきた具体例というのが、「ブレーメンの音楽隊」で、栗村ちよのは高橋愛じゃないよねっていうお話。もう、我が意を得たりというような例です。脚本上、確かに栗村ちよのは、高橋愛ではありません。しかし、高橋愛が演じた瞬間に栗村ちよのは高橋愛になるんです。しかし、高橋愛は栗村ちよのではありません。高橋愛は、脚本を読んで、どんな状況なら自分はちよののように行動するか、ちよのような言葉を発するのは自分がどういう心理状態にある時か、それを深く考えます。共感する部分、そうではない部分、自分にあってちよのにない部分は削り取り、自分とちよのの重なる部分を膨らませて表現します。つまり、栗村ちよのは高橋愛のある一面をもった存在となります。


川* ’ー’)<私は栗村ちよのじゃないんやよ
川* ’ー’)<でも、ちよのはあっしなんやよ


だから、栗村ちよのも金井ゆきも高橋愛なんです。無い部分を想像で補ったとしても、それは自分の中から出たものでやはり自分なんですよね。もちろん=ではありませんから、そういう部分で本物ではないと感じる人もいると思うんですけど、嘘を演じるわけではないんです。


ここで分けて考えているのが演技と言う言葉です。演技とは演じるための技術です。そこに本物の心がなければ、どんなにうまい演技でも、そんなものに意味はありません。そこに本物の心をプラスするために考え、悩み、葛藤するわけです。それは歌を歌うと言うことでも変わらないと思うんですよね。演技という偽者を、本物にするために悩み、努力していけば、いつかはなれる、本物以上の偽者に。


モーニング娘。のような10代の少女は、大人に比べると精神が未発達で純粋です。それだけに、感情の解放は起こりやすい、それが役や歌と重なった時、奇跡は起きます。「ブレーメンの音楽隊」で、ちよのが「僕は、僕は、ずっと、自分は不幸な星の下に生まれたんだって思ってた。ロバなんて名前が付いた時から、冴えない人生が決まったんだって。だから、ブレーメン行きたかった!環境が変われば、何かが変わるんだって、思い違いしてた。」と言うシーン。撮影ではいくつかのテイクにわけて撮影する予定だったらしい。しかし、あまりにも高橋愛が栗村ちよのとシンクロしたために、カメラを止めずに一気に取ったと言う話を聞いた。そして、「でも、やっと分かったんだ!新しい人生の扉は、自分が変わった時に、初めて開くんだ!」というセリフを言い終わったちよのの瞳には、自然と涙が溢れていたという。かくして、「ブレーメンの音楽隊」の名シーンは生まれた。それは、高橋愛の栗村ちよのが、完全に高橋愛と重なった瞬間でした。高橋愛にとっても、いろいろ悩んでいた時期とちょうど重なるしね。


モーニング娘。のコンサートに行くと、そんな素敵な瞬間に遭遇することがある。何かの拍子に彼女達の普段は制御されている心のリミッターが解除され、感情が解放される。そして、その感情が歌に乗って、ダンスに乗って客席の僕たちまで届く。山口の道重さゆみ、桑名の新垣里沙の誕生日祝い、武道館で卒業した石川梨華ちゃんと送り出した娘。達・・・、これは、様々なエッセンスが交じり合って出来た本当に奇跡みたいな瞬間なので、上で言ってることと厳密には違うんですけど、それはそれで素晴らしいこととして、外からの要因が加わらなくても本物に近づけるような、そんなレベルの高いパフォーマンスが出来ればいいと思う。そういう意味で、昨日の更新の高橋劇場は楽しみにしている。今でもじゅうぶん賞賛に値するものを見せていると思うけど、もっともっと悩んで、歌の世界と自分を近づけて、素敵なパフォーマンスを見せて欲しい。本当の気持ちはきっと伝わるはずだから・・。