三国志 諸葛孔明

上のテキストで、モーニング娘。についてその興味の幅を広げようと書きました。その中で中国の歴史を引き合いに出して語ったので、そっち方面でもちょっと書こうかな。三国志はメジャーなので、ここに来る方でも知ってる方も多いと思うし、興味がちょっとでも広がればと。


日本では諸葛亮孔明と表記されることが多いですが、間違いです。姓が諸葛、名が亮、字が孔明です。普通、名と字(あざな)を両方書くことはありません。ですから、表記としては諸葛亮、または諸葛孔明が正しい表記と言うことになります。名とは生まれたときに親がつけるもので、字は成人したときに自分でつけるものです。成人と言っても20歳と言うわけではないようです。というのは、三国志演義馬超のところに「馬超、字は孟起、歳まさに17歳」というくだりがもあることですし。で、通常は名と字では字のほうをとって呼ぶことのほうが多いんですね。と言うのは、字と言うのは成人して名乗るわけですから、字があるということは一人前だということになるわけです。それをことさら、名で呼ぶと言うことは一人前扱いしてないということなるわけで、例えば諸葛孔明諸葛亮と呼んでいいのは、目上の人、つまり主君である劉玄徳だけですね。亮と呼ぶのは両親や目上の親族、他に後世の人間が名前を出すときも諸葛亮劉備といった姓+名でかまわないはずです。ちなみに当時の人は?というと姓+官職で呼ぶのが普通なのかな。諸葛丞相とか、諸葛右将軍とか、諸葛武候とかですね。


三国志演義の作り上げた虚像は凄まじいばかりで、諸葛孔明が中国史上最高最大の軍師であると思っている日本人がたくさんいるわけですね。しかし、史実において孔明劉備本営において作戦指揮をとったという記録はありません。劉備軍で作戦指揮のあたったのはホウ統*1です。ホウ統の死後は、法正が劉備本営での作戦指導にあたります。そしてこの二人の死後、劉備は戦にまったく勝てなくなります。この二人は正史の「三国志」のほうでも謀将とか謀臣と表現されていますが、孔明はそれは一度もありません。西暦221年に劉備関羽のあだ討ちで呉に出兵し、手痛く負けます。このとき孔明は「法正が生きていたら主君をお止めしただろうし、止められなくても負けはしなかった」と嘆きます。要するに軍事に関しては法正のほうが劉備に信頼されていたということです。


では、孔明は何をしていたかというと、劉備が出陣した後の本拠地を守っていました。後方で反乱が起きないようにし、兵站線を確保し物資を送る、完璧な留守番役でした。人柄は清潔で公正無私、能力も堅実で、劉備も安心して任せることが出来たんですね。三国の中でもっとも小国の蜀は、劉備の跡継ぎも暗愚な上に人材にも乏しかった。これを支えたのは孔明の努力によります。度々の北伐も、現代風にいえば攻勢防御という意味合いが強いのかもしれません。国力の許す範囲で負けない戦いを行う。このあたりが一か八かの勝負に出ようとする魏延あたりと意見があわない点なんでしょうけど。そんな蜀も孔明の死後、姜維の国力を考えない北伐により疲弊し、滅亡への道を歩むことになります。のちに「三国志演義」の登場で超人的ヒーローとして人気を集めますが、実際は清廉実直で策略を巡らすような人ではなかったようです。


参考資料:中国武将列伝by田中芳樹 他(なんだっけかな、「名将の条件」とか「歴史を変えた7つの戦い」とか記憶の中にあるいろいろなのをくっつけた。ちなみに田中芳樹さんは、「三国志」巻35諸葛亮伝を参考にしてるので、それも間接的に。たまーに歴史シリーズとして紹介する・・かも。受け売りばっかりではずいけど。

*1:ホウの字はまだれに龍