魂の物語

さて、そろそろネタバレを気にせずに、ストーリーにも触れていきますよ。


その前に、ちょっと報告を
8月12日・13日の夜に入ったんですけど、両日とも満員御礼という感じで、キャストの皆さんもいっそう気合を入れて演じてました。お盆休みに入ったので家族連れも増えましたね。


13日は松浦さんの初演でもあり、これでてってけは全バージョンを見たことになります。簡単に違いを書きます。やっぱりなんだかんだ言ってもフランツの1stキャストは石川梨華さんだという認識を確かなものにしました。で、石川さんのフランツをベースに、なっちであり、あややであることも義務付けられた二人がゲストとして演じるわけです。


常々書いていますが、演じるというのはこう演じるのが正解というのがあるわけではなく、役と演者の重なる部分を膨らませ、重ならない部分を削ることです。人によって重なる部分が違うので、それが演者が変わることによって出る個性となります。石川さんは、熱血ですが空回りするタイプの王子でした。なっちは、いつのまにか大変なことに巻き込まれちゃった感のある王子、松浦はなかなかクールでナルシストな王子を演じていたと思います。


あと、13日の梨華ちゃんのピエールもなかなかよかったです。フランツといい、ピエールといい、梨華ちゃんの舞台にたいする意気込みがこちらまでよく伝わってきます。ま、淑女だけは伝わりすぎてあまりにきしょいので、うんざりしますが(誉めている)。


じゃ、ストーリーのほうへ触れていきます。これは解釈の一つなので、みているうちにまた変わるかもしれませんが、いまのところ私はこう見ています。


まず、リボンの騎士に出てくる魂ってのは何なんでしょう。ずっと引っかかっていたのはこれでした。男と女の2つの魂をもって生まれてきたというのはどうことなのか、考えました。もともと神様の予定では女に生まれる予定であったわけで、女の子の魂を正式に与えられています。男の子の魂は不正に与えられたわけですが、そのせいか物語の中では女の魂のほうが強いうと言うことになっています。


ヘケートに女の魂を奪われるまでは、サファイアは男になることはありません。男のように振舞うことを求められはしますが、別に男になっているわけではありません。そこで、私は、本来は女であるはずなのに、男の魂を持っていることによって、男としての運命を押し付けられることになると解釈しました。もちろん、純粋に魂としての意味もあるので、魂を1個失っても死にはしないんですけどね。


サファイア自身(サファイアの女の魂)は女として生きることを望み、女としての幸せを求めますが、運命(男の魂)はそれをさせません。国は王子としてのサファイアを必要とし、フランツはサファイアを王子として憎み、魔女ヘケートまで出現してサファイアに男としての人生を強いります。


私が、なぜ男の魂は男としての人生を強いると解釈したのか、理由はラストシーンにあります。サファイアは「私はしあわせ・・」といって死にます。どうして幸せなのでしょうか。それは身はたとえ男になってしまっても、女として死んだからです。フランツは、どうしてもサファイア王子との決着をつけたかった。騎士は名誉のため命を掛けます。「どちらかが息絶えるまで戦う」というフランツの言葉に、サファイアは「どちらかが息絶えるまで・・」と応えます。両方が残る道がない以上、サファイアには自分が死ぬという選択肢しかないのです。


ここに至るまで、サファイアは愛する母を救うため女の魂を差し出しています。そして愛する人のため、こんどは命を差し出します。ゆえあって、フランツと結ばれることは出来ないが、サファイアは体は男になっても、女としての愛を貫いたのです。サファイアはあの瞬間、誰と争うこともなく、自らの命を差し出すことで、ヘケートにも、フランツにも、大臣にも、そして男として生きることを強いた男の魂にも勝ったのです。女として、愛する人を守り、愛する人の腕の中で・・。


じゃあ、父の仇を打ちにいったのに、かってに死んじゃっていいのか?というと、いいんです。もともと敵討ちとか、王統とかに意味があったわけじゃありません。国王も言ってたじゃないですか、大臣が権力を握ると国が乱れて、民が苦しむと。サファイアは、もともとそうならないように王子として育てられたのです。つまり、父の意思は、王統ではなく民の暮らしにあるわけですね。フランツの登場によって、大臣政権はすでに倒れました。フランツなら、たぶん、そんなひどい政治は行わないでしょう。この時点で、サファイアの国への心配はなくなっています。


一方ヘケートは、自分が愛されることを望んでいましたが、愛されようとした自分が、愛したサファイアに及ばないことを知り、魂をサファイアへ返します。それはヘケートが愛したフランツへ贈る愛でもあったかもしれません。奪うものには何も与えられず、与えるものには与えられる。荀子の中にもにたようなエピソードがあったと思います。欲するものはまず与えよということですね。愛を知り、愛を与えたヘケートには、神様から魂が与えられ、ヘケートは永遠に続く時間から開放されます。ヘケートはサファイアを救い、結果的に自分が救われることにもなりました。きっと愛をもって、生まれ変わるのでしょう。